第十話 黒 髪

「別れてくれないか」

 聡之助は思いきって口にした。

 諾でも否でもなく無言のままの女は、終始うつむいているので顔が見えない。結いかたはいいかげんだが見事な黒髪だけが目に入る。別れたくないという感情を抑えるため返事もできないのか。

 部屋住みの気楽さで、聡之助も人並みにいろいろな女とつき合ってきた。情が深そうで面倒なことになると予想していた女が、別れる段になると、けっこういさぎよかったりして拍子抜けすることもあった。

 目のまえの穏和そうな女のほうが、いっそ手こずるかもしれぬという考えがよぎった。

 女はうつむいたまま、

「承知いたしました」と消えいりそうな声で言った。

 その声にも、怨みがふくまれているのか、割り切っているのか、なにも表れていない。それがかえって気になる。こういう女はほんとは苦手なはずだった。

 もともと、そんなつもりはなかった。

大気がじっとりして、一日じゅう温気(うんき)がこもり、夕暮れともなると物の形も定かに見えないような日だった。女が裏庭で髪を洗っており、そのみどりなす黒い流れとうなじの白さに、ほんのいっしゅん魅入られただけだ。

 母屋の兄のところで話しこみ、酒が過ぎたせいもある。部屋からの灯りで女のうなじが庭の闇に浮いていた。通りすがりに見ただけのはずだった。

 しかし髪を拭きながらくる女と、廊下ですれちがいざまその手を握っていた。そのまま自分の部屋である離れへ引っ張っていった。女はひんやりした濡れ髪のままなだれこんできた。

 それから二年、部屋住みのままなら、妻にしてもよいとは思っていた。突きはなそうとしても、なおからみついてくる情を感じて、つづいていたのだ。

 ところが当主である兄が急死した。子はまだいなかった。

家禄は二千石、旗本としては大身のほうである。聡之助が家督を継ぐことになった。こうなると、兄のところの下働きである女を妻に据えるわけにいかない。

 跡目の挨拶に上様にお目見えした折りにも、

「そこもとは、まだ妻を娶ってないと聞いておる。ちょうどよい家格の娘がおるゆえ、早々に式を挙げるがよい」とじきじきのお声がかりもあった。

「は、ありがたき幸せにございまする」と、なんのためらいもなく答えていた。

 そのへんの事情を女はよく心得ているはずだった。面倒なことが起きてはまずいと、当主となった聡之助は、いちばん先にひまをとらせた。

 屋敷を去るまえ、女は「ひとつだけお願いがございます」と言い、湯呑み茶碗を持ってきた。

「ああ、いいとも」

 女が意外に素直に下がってくれるので、聡之助は気分よく返事をした。

「これをわたくしとお思いになって、おそばに置いてくださいませ」

「なんじゃ」

“じゃ”というのは旗本言葉である。だいぶ板についてきた。

 湯呑みの中をのぞくと、みどり色をした丸いものが水に浮かんでいる。

「なんじゃ、これは」

「毬藻でございます」

「これが藻か、おもしろい形をしておるの」

「これをお殿さまが可愛いがっておられます金魚鉢にでも浮かせてやってくださいませんか」

 廊下の端に大きな水鉢が置いてある。友人からもらった金魚を飼うため、龍閑川にかかる今川橋近くの瀬戸物問屋で求めたものである。

「金魚に食べられやせんか」

「いいえ、これはそんなことはございません」めずらしく強い調子で女は否定した。

「じゃ、入れていくがよい」

 なんともつつましい願いではないかと思った。

 

 金魚鉢は母屋の廊下へ運ばれ、花嫁も夜のいとなみにも慣れてきたころだった。

 聡之助は鉢に浮いている毬藻がずいぶんと大きくなっているのに気づいて驚いた。二尺ほどの大きさの鉢には数匹の金魚のほか、蓮の葉を浮かべたりしていたが、いまや茶碗ほどになっている。

 後家人には、花や植木を栽培したり、金魚や鯉を育てたりを内職にしている者が多い。聡之助はそんな配下の者に見てもらった。

「毬藻とはめずらしゅうございます。これは蝦夷の奥地か奥羽の端の湖にしか生息できませぬが」

「それでは、この鉢にあるものはなんだ」

「たしかに毬藻と存じますが、いかにも成長が早うございます」と首をかしげて帰って行った。

 その後も、毬藻はどんどん大きくなり、人の頭ほどになっていく。

 ──気味がわるいな、捨てるか。

 そう思わないでもなかったが、むやみに捨てたりしたら、なにか怨みをかいそうな気がして、できなかった。

 ある夜──初めて女の黒髪に目をとめたときと同じように空気のじっとりした夜──聡之助が鉢のそばを通りかかったとき、毬藻の形がゆるゆるとくずれはじめた。くずれた糸様の藻は、気づくと長い黒髪となって鉢からこぼれてきた。

 こぼれた黒髪はうねうねと近づいてくると、聡之助にからみついてきた。悲鳴をあげるひまもなくつつみこまれ、全身をくるまれてしまった。

 すべてをくるみ終えると黒髪は毬藻にもどり、もとの大きさ、女が聡之助に渡したときの小ささにちぢんでいった。

 

 やがて水鉢から腐ったにおいがするようになった。

「なんだか不吉だこと。捨てておしまい」

 聡之助の子を抱きながら、新妻は言った。なぜかわからないが、行方知れずになった夫と関わりがあるような気がしたのである。

 捨てられた毬藻は溝を這い、川へ落ち、海へと出、親潮に乗り、北へ北へと流れていった。

 さらにまた川をさかのぼり、小川をつたい、とうとう蝦夷の湖に着いた。

 その水中には、嫉妬にからめとられた男たちが、無数に浮きしずみしているという。