新築の家ができ上がった。場所は、室町二丁目と品川町入口の角である。
棟上げしたのは、十軒店で雛人形の売り出しをしていたころだから、それから半年経っていた。
重陽の節句の日、木屋九兵衛一家は、新居に移った。
一階は、塗物・漆器の問屋である間口七間半の大店である。奥に、使用人たちのいる小部屋がいくつかと台所がある。
まあたらしい階段をあがると、二階は家族の居室、座敷と仏間で、五つともひろびろとしている。
九兵衛は帳簿付けを終えて二階へ上がり、外を眺める。天井を高めにつくったので眺望にも満足していた。暗くなった通りの向こう、黒い家並みに灯りがちらちらするのを眺めるのも楽しみだ。
ときには窓枠に座りながらいっぱい引っかける。となりの部屋では三人の子どもたちが、その向こうには九兵衛の親たちが、すやすやと眠っている。
「やっぱり天井を高くしたのがいいねえ」と女房に声をかけた。
「ほんと、ひろびろしてますよ。でも…」
女房は浮かない顔をしている。
「なんだ、まだ気にしてるのか」
「いえ、そのことじゃありませんのさ。なにかおかしいんですよ。ただわたしの頭がおかしいなんて言われるのが嫌で黙っていたんだけれど、でも……」
「でも、なにがあるんだ」
昼間、九兵衛が商売のため階下に降り、子どもたちも手習い所に行って、静かになると足音が聞こえてくるという。
「それも上からなんですよ」
「上から?」
女房は真剣な顔をしてうなずく。
「ここは二階でしょう、聞こえるはずないじゃありませんか、それなのに……」
部屋で縫い物をしていると、パタパタとはたきを使う音が聞こえたり、廊下を幼い子が走る音がする。座敷では、経を詠むお婆さんの声がしたり、どうしても、三階があって上に人が住んでいるような気がする。
「新しい家っつうのは妙な音が聞こえたりするらしいぜ。だから、上に人が住んでいるような気がするったって、それは、どこかの木材がきしんだりしている音だよ」
「そうじゃない。ほんとに人が上に住んでる……いつもというわけじゃないけどさ」
「神経じゃないのか。引っ越しでおまえは疲れているんだよ」
「そうですかねえ」
数日過ぎても、女房の顔が晴れないので、九兵衛は屋根裏にだれかひそんでいるかもしれないと考え、番頭や丁稚に調べさせた。
「なにもありませんでしたよ」と丁稚が言い、
「できたてですもん、埃ひとつありやせんや」と番頭も口を添えた。「きれいなもんです。あたくしが寝られるくらいで……おう、おめえの寝床、明日からあそこにしねえ」と丁稚をからかった。
親たちにも尋ねてみたが、年老いて耳が遠いせいか、なにも聞こえないと言った。
さらに数日が経ち、九兵衛は風邪を引いた。店は使用人たちにまかせ、二階で休んでいた。午後になってすこし熱も下がったので、看病していた女房は八百屋への買い物に下りていった。
天下一にぎわう大通りである。いつもはその賑わいのなかに身を置いていたが、遠く近くにそれを聞きながら、九兵衛は寝床でうつらうつらしていた。
女たちの話す声がかすかに聞こえてきた。けたたましい笑い声や叫ぶ声もする。女房が帰ってきて、裏口で近所のかみさんとしゃべっているのかと思いながら、はっと目を覚ますと、階下はしんとしている。
しかし、女たちの話し声はまだ続いている。九兵衛は起きあがり、階段のところまで行った。下をうかがってみると、裏口にはだれもいない。それなのに、話し声だけは依然として聞こえてくる。
熱のせいだ。そう決めつけて寝床へもどろうとすると、頭上でトントンと子どもの走りまわる音がする。九兵衛はぎょっとなって立ち止まった。
幼い子どもたちがパタパタと駆けまわったり、窓枠や机の上からか、飛び下りるときの音もする。それも天井裏というより、その上からである。障子や襖を開け閉てする音も聞こえる。
九兵衛は気味が悪くなったが、布団をかぶって、そのまま寝てしまった。
元気になっても、それは続いた。女房はひとりで二階にいることを嫌がるようになった。
そうしたある日、地震が起きた。昼間の時刻で大事にはいたらなかった。
そのことで、九兵衛には思いだすことがあった。
三年近くまえのことになるので、すっかり忘れていたのだ。
家の新築の話は三年まえから出ていた。そのころは三階建てにするつもりで、少し小さめだが、三階は女房の遠縁の者に貸すつもりで、約束もしていた。
ところが、その家族が親を連れに本荘の実家に帰省中、象潟(きさがた)の大地震が起きた。一家は潰れた家屋の下敷きになって全滅した。幕府は二千両を本荘藩に貸与し、九兵衛自身も百両の寄附をした。
そんな事情があったうえに裏手の家から、三階建ては日陰が多くなるから困る、もっと低くしてくれという文句が入ってきた。
それで九兵衛は、二階建てにすることにした。建ちをそっくり低くするのも業腹だったので、ふつうより天井の高い二階建てにしたのだ。
「そう言えば、あの家族、この家に入るのを楽しみにしていたなあ」
女房とふたりで仏壇に手を合わせ、あらためて、地震で亡くなった家族の冥福を祈った。
「そうですよ、きっと。ここで暮らすのを楽しみにしてましたから。たぶん……いっしょに暮らしてるんですよ」
「そうだな」
ともに暮らしているのだと思えば、物音は気にならなくなった。
そして、数ヶ月が経ち、ふと気づくと、いつの間にか音はしなくなっていた。