「さあ、ここから先は八百屋さんのてまえで左に曲がるんだよ」
おっかさんが言って、おいらの背中をたたいた。いつもはぽんとはたくだけだが、機嫌が悪いときは痛いほどどやしつけられる。きょうも、どかんと叩かれた。
「いてっ」と叫ぶと、もっと叩かれるので口に呑みこみ、
「うん、八百屋さんとこで左だね」と言うなり駆けだした。
おいらは、もうじき十九になる。弟や妹は十二、三で奉公に出たけど、おいらがなにもできないので、おっかさんは苦労しているんだそうだ。苦労って、よくわかんねえけど、おっかさんがいつも不機嫌なのは、きっと苦労のせいだ。
おいらは忘れないように「八百屋さんで左、八百屋さんで左」と唱えながら行く。
八百屋のてまえを左に曲がると笠屋があり、その二階の手習い所へ毎日通うんだ。
みんなは、おいらのことバカだ、阿呆だというけど、手習い所のお師匠さんだけは、おいらはほんとはとても頭がいいって言う。
おいらは『論語』の一万二千字、『孟子』の三万四千六百八十五字など、ぜんぶ暗記できる。どんなに有能な大名や家臣でも、そんなに覚えられるもんはいないって、お師匠さんは言ってくれる。
算学が特にできるが、算盤程度しか知らない世間の人は、おまえのできのよさがわからない、学問吟味も合格するに決まっているが、お武家の子息しか受けることができないから残念だとも。
手習い所にいると、おいらはいちばん安心する。お師匠さんの命じるままに、墨をすったり、紙をみんなに配ったり、お手本を読本箱から出したり、ときには『中庸』のどこそこを、みんなのまえで暗誦してみせたりする。
「みんな、目をつむってよく聞くんだぞ」
とお師匠さんは言うが、おいらの暗誦を聞いている子はいない。ときどき注意されるが、きょうもガキ大将の庄ちゃんが落ち着かず、みんなの机の周りを走り回る。
みんなの清書(きよがき)に朱を入れていたお師匠さんは、
「庄吉、棒満の罰だ」と指さした。
棒満というのは、机の上に立たされ、火のついた線香と湯呑みを持たされることだ。線香が終わるまでじっと立っていなければならない。
帰りしな、下駄をはくときに庄吉といっしょになった。庄吉はまだ腹の虫がおさまらないらしく、なんだよと、ねめつけ、おいらよりずっと小さいくせに小突いてくる。
「暗誦するときは静かにしてなきゃいけないんだぞ」と言ってやった。
「ふん、バカが、えらそうに」
「おいらはバカじゃない」
「バカだよ。いくら暗(そら)で言えても、あいつは意味がわかってないって、お師匠さんが言ってたぞ。おめえは足りねえんだよ」
「うそだ、バカじゃない。おいらはバカじゃない」
と叫んだけれども、庄吉以外の子どもたちもバカだとはやし立てた。
「なにを騒いでいる。さっさと帰りなさい」
お師匠さんが階段の上から言ったので、みんなは逃げていった。
「おまえも帰りなさい。八百屋さんのところで右だぞ」とお師匠さんが注意してくれた。
夕飯のときも、おまえは足りないんだという庄吉の言葉が気になってしようがなかった。
「ほら、さっさとお食べ」とおっかさんがとげとげした声で言った。
その声に、おいらは茶碗と箸を置いて立ち上がった。
腕をひろげて、ぐるぐると体を回す。頭も回る。ぐるぐる、ぐるぐる……そうやると、おいらの頭の足りない部分が満ちてくるような気がするんだ。
「また、はじまった。やめな、おやめ!」とおっかさんが怒鳴る。
そう言われても、ぐるぐる回りは止まらない。
「もぉ。おまえみたいなもんは出ておいき。ほら、出ていけ」
おいらは家を飛びだした。夕立が降りだしていて、遠くで雷も鳴っていた。雨足が強くなり、女の人は悲鳴をあげながら軒下に避難する。あたりは暗くなり、ときどき思いだしたように、遠くの空が光った。
おいらはずぶ濡れになりながらも、足りないんだ、足りないんだ、と繰りかえした。
いっぱい歩いたような気もするし、少ししか歩かなかったような気もする。
ふと気づくと、おいらは土手の樹の下にうずくまっていた。長いあいだ、そうしていたような気もするし、少しだけのような気もする。
「やっぱりここにいたか」
その声に振りあおぐと、尻っぱしょりをしたお師匠さんが笑っていた。すぼめた傘を手にしていて、その傘からは滴がしたたり落ちている。
雨はやんで、いつの間にか空は晴れていた。
お師匠さんは尻っぱしょりの裾を下ろしながら「おっかさんが心配してるぞ」と言った。
おいらが立ち上がったとき、空に大きな虹があらわれた。
「虹だ、虹だ」どこからともなくそんな声が聞こえてくる。
「ほう、ここまでくると、虹も大きゅう見えるな」とお師匠さんも言った。
川の向こうにかかる虹の橋は、家いえの屋根に綺麗で大きなふたをして、人びとの暮らしに禍いがおよばないようにしているみたいだ。
「おっかさんはな」とお師匠さんがつぶやくように言った。
「おまえのことが毎日、心配で心配でたまらないのだ」
「おいらの頭が足りないからかの」
「足りないなんて、だれが言った」とお師匠さんはいっしゅんきっとなったが、すぐに声をやわらげた。「足りなくなんかない。人はそう言うかしらぬが、あり余りすぎていると、わしは思うている」
「じゃ、ぐるぐる回りなんかしたら、おいらの知恵は吹きとんじゃうかな」
「あはは、そうだ。ぐるぐる回りは無駄なことだ。もったいないし、おっかさんを困らせるだけだ」
「おっかさんは困るのか、おいらがぐるぐる回りすると」
「そりゃ、困っているさ。おっかさんも人の子だ。いつも不機嫌なのは、いつもおまえのことを気にかけておるからだよ。朝、目が覚めると、おまえのことを考える。おまえがいるから、きょうも生きようと思う。どこのおっかさんも子どものことはそう思うだろう。しかし、おまえのおっかさんは、毎朝、自分の心に虹をかけて起きるのだ」
「自分の心にあんな大きな虹をかけるのは大変だね」とおいらは言った。
お師匠さんは深くうなずきながら「そのとおりだ。うまくかけられる日もあれば、かけられない日もあるだろう。さあ、濡れたままだと風邪をひく。おっかさんが乾いた衣服を持ってきておる」
「ふんどしも濡れちゃったよ」
「ああ、ふんどしもある」
二階に手習い所のある笠屋の入口で、おっかさんがそわそわしながら待っていた。
「このバカ、どこ行ってたんだよ」と、いつものようにおいらをぶった。
そのとき、おいらは気づいた。おっかさんて、おいらよりこんなに小さかったんだと。
それから、おっかさんの目の周りが疲れて黒ずんでいるのに気づいた。扇子売りの商いから帰ってくると、毎晩遅くまで扇子貼りの内職をしているからだ。
その黒ずみが、お師匠さんの言う虹かもしれないと思った。