第六話 四十雀

 陽ざしの明るい、あたたかな日だった。

 今川橋まえの店番を手代にまかせ、木助は奥の二階で一服していた。五十過ぎてのやもめ暮らし。 その無聊(ぶりょう)さに、となりの裏庭を見下ろした。

 庭では、隣家の娘が洗濯物を干している。青葉がうつるのか、その顔も手もどこか蒼じろい。娘 は労咳を病んでいた。ひごろは臥せっていることが多いのだが、初夏の陽気に誘われて、洗濯のひ とつもする気になったのだろう。

 水仕事などしていいのかいと、胸の奥でつぶやきながら、

「いい陽気だねえ」

 木助は二階の手すりにもたれたまま声をかけた。

 娘ははっと木助に気づくと、あわてて唇に指をたて、しっ、と言った。

 それから売子(えご)の樹の梢を指した。 隣家の裏庭には大きな売子の樹があり、白いちいさな花が満開である。陽ざしのあたるところでは雪のようにかがやき、梢の陰ではひっそり咲いている。

 蒼じろい指が示すその花の梢のあいだに鳥が巣をつくっていた。

 おや、いつの間に── 雛が孵ったばかりのようだ。羽の水浅葱色が美しく、白いほほの目立つ親鳥が、巣のまわりをしきりにばたばたしている。

 ──そうだったのか。

 声には出さず、口だけで相づちを打った。

 ──シジュウカラよ。

 娘も声には出さず、口まねで言うと、うれしそうになんどもうなずいた。

 そうか、四十雀か。

 うなずきかえしたとき、裏庭の木戸がぱっと開けられ、ぼろをまとった裸足の子どもたちがどやどや入ってきた。

「鳥が卵を産んでんだ。採って食おうぜ」

 ひとりが指さし、ほかの者たちが白い小花の梢を見上げる。

「あ、あそこだ」

 棒を手にした者が下から巣をつつこうとするが、いますこしとどかない。

 親鳥が巣の周りを飛びつつ、ツッツッチー、ツピチ、ツピチと、威嚇しながら跳ねまわる。

 ──やめんか。

 怒鳴りたいのをぐっと呑みこんだ。巣は木助に近い。

 下にいる娘もはらはらしながら、子どもたちをたしなめることができないでいる。

 あいつら……

 木助は階段を転がり落ちるようにして降りた。

 向こう両国に、家のない者がたむろしている界隈がある。そこには子どもたちもいるが、たいてい親がいない。いつも餓えていて食べ物を探し求め、あるいは銭を拾いに遠征してくるのだ。ゆく ゆくは、かっぱらいや空き巣ねらい、器用であれば掏摸など、ろくな者にはならないガキどもだ。

 縁側を飛び下りる。隣家とのさかいの木戸を開け、となりの庭に飛びこんだ。子どもたちを殴りつけてでも追い払ってやる。

 しかし、すでに遅く、一羽の雛が上から落ちてきた。娘がはっと胸をおさえる。

 あやういところで、いちばん年かさらしい男の子が、両手で受けとめた。

 手のなかを見いった子の眼に、愛しさのようなものがいっしゅんよぎったような気がした。その子は、ついと雛を木助に手わたした。

「こんなちっけえの食ったって、腹がふくれるわけねえ。行こうぜ」

 その声に、ガキたちは、どやどやと出て行った。

 ほっとしたものの、おどろかされた娘は激しく咳こみはじめた。口を手でおさえると、家の中に 駆けこんだ。

 木助は手のなかの雛を見つめた。梯子を持ってくると、樹にたてかけ、上っていった。こっそり 上ったが、それだけでも親鳥はツピチ、ツピチと飛びまわり、つつかれそうだ。

 木助は梢のあいだの巣に雛を置いた。

 梯子を片づけようとしたとき、縁側に娘がいて、かすれた声で言った。

「小父さん、ありがとう」

「いいんだよ。しようがねえガキどもだ。早く床へもどんな」

 隣家の庭には、干された洗濯物が陽ざしにまぶしく照っていた。

 それから二か月が経った深夜──

 木助は、隣家から妙なざわめきを聞いた。はてと耳をすませると、さかいの木戸がかすかな音を 立てた。ほどなくトンと縁側に上がる足音。障子を開け、するりと入ってくる黒い影。

 あっちだ、木助さんちだ!

 となりから叫ぶ声がする。

 細くしてあった灯芯をいっぱいにひねると、急に明るくなったのにひるんだ賊は立ちどまった。

頬かむりもしておらず、大人になりきってない子どもの顔が浮かんだ。

 おまえは──と、はっとしたとき、庭がざわめき、大勢の足音がした。

「木助さん、起きてるかい」

「あ、ちょっと待ってくれ」

 うす汚れた顔と手足の子は魔術にでもかかったように、身動きできないでいる。春に四十雀の雛 を渡してくれた子だ。あのとき手のなかを見ていた眼が浮かんだ。

「行け」

 と木助は店先のほうをあごで示した。

 男の子は身をひるがえし、すぐに店のかんぬきを外す音がした。

 それから木助は裏庭の障子を開け、声を張りあげた。

「なにか、あったのかい」

「こそ泥が入ってきやがってよ。こっちへ来たようだったが」

「いや、気づかなかったな」

「明かりが大きくなったぞ」

「そりゃ、おまえさんらが騒がしいから、何事かと思ってさ」

 おかしいな、あの野郎、どこへ逃げやがったんだと、となりの住人たちはてんでにつぶやきなが ら、木戸をくぐって帰っていった。

 木助はとなりの売子の樹を見あげた。

 白い小花が満開だった樹は、いまは薄い柳色の実をさくらんぼのように付けている。家の明かり に照らされ、梢の闇に浮かんでいるのが、空に連なる星のしずくに見えた。

 樹にいた四十雀の親子は、いつの間にかいなくなっていた。小枝やぼろ屑で作られていた巣も、 棲む者がいないと壊れてしまうのか、いまは影も形もない。

 隣家の娘もいないが、かみさんの実家の信州で養生しているということだ。

 よくなって帰ってくるとも。

 それから、あのガキもよくなるとも。