陽ざしの明るい、あたたかな日だった。
今川橋まえの店番を手代にまかせ、木助は奥の二階で一服していた。五十過ぎてのやもめ暮らし。 その無聊(ぶりょう)さに、となりの裏庭を見下ろした。
庭では、隣家の娘が洗濯物を干している。青葉がうつるのか、その顔も手もどこか蒼じろい。娘 は労咳を病んでいた。ひごろは臥せっていることが多いのだが、初夏の陽気に誘われて、洗濯のひ とつもする気になったのだろう。
水仕事などしていいのかいと、胸の奥でつぶやきながら、
「いい陽気だねえ」
木助は二階の手すりにもたれたまま声をかけた。
娘ははっと木助に気づくと、あわてて唇に指をたて、しっ、と言った。
それから売子(えご)の樹の梢を指した。 隣家の裏庭には大きな売子の樹があり、白いちいさな花が満開である。陽ざしのあたるところでは雪のようにかがやき、梢の陰ではひっそり咲いている。
蒼じろい指が示すその花の梢のあいだに鳥が巣をつくっていた。
おや、いつの間に── 雛が孵ったばかりのようだ。羽の水浅葱色が美しく、白いほほの目立つ親鳥が、巣のまわりをしきりにばたばたしている。
──そうだったのか。
声には出さず、口だけで相づちを打った。
──シジュウカラよ。
娘も声には出さず、口まねで言うと、うれしそうになんどもうなずいた。
そうか、四十雀か。
うなずきかえしたとき、裏庭の木戸がぱっと開けられ、ぼろをまとった裸足の子どもたちがどやどや入ってきた。
「鳥が卵を産んでんだ。採って食おうぜ」
ひとりが指さし、ほかの者たちが白い小花の梢を見上げる。
「あ、あそこだ」
棒を手にした者が下から巣をつつこうとするが、いますこしとどかない。
親鳥が巣の周りを飛びつつ、ツッツッチー、ツピチ、ツピチと、威嚇しながら跳ねまわる。
──やめんか。
怒鳴りたいのをぐっと呑みこんだ。巣は木助に近い。
下にいる娘もはらはらしながら、子どもたちをたしなめることができないでいる。
あいつら……
木助は階段を転がり落ちるようにして降りた。
向こう両国に、家のない者がたむろしている界隈がある。そこには子どもたちもいるが、たいてい親がいない。いつも餓えていて食べ物を探し求め、あるいは銭を拾いに遠征してくるのだ。ゆく ゆくは、かっぱらいや空き巣ねらい、器用であれば掏摸など、ろくな者にはならないガキどもだ。
縁側を飛び下りる。隣家とのさかいの木戸を開け、となりの庭に飛びこんだ。子どもたちを殴りつけてでも追い払ってやる。
しかし、すでに遅く、一羽の雛が上から落ちてきた。娘がはっと胸をおさえる。
あやういところで、いちばん年かさらしい男の子が、両手で受けとめた。
手のなかを見いった子の眼に、愛しさのようなものがいっしゅんよぎったような気がした。その子は、ついと雛を木助に手わたした。
「こんなちっけえの食ったって、腹がふくれるわけねえ。行こうぜ」
その声に、ガキたちは、どやどやと出て行った。
ほっとしたものの、おどろかされた娘は激しく咳こみはじめた。口を手でおさえると、家の中に 駆けこんだ。
木助は手のなかの雛を見つめた。梯子を持ってくると、樹にたてかけ、上っていった。こっそり 上ったが、それだけでも親鳥はツピチ、ツピチと飛びまわり、つつかれそうだ。
木助は梢のあいだの巣に雛を置いた。
梯子を片づけようとしたとき、縁側に娘がいて、かすれた声で言った。
「小父さん、ありがとう」
「いいんだよ。しようがねえガキどもだ。早く床へもどんな」
隣家の庭には、干された洗濯物が陽ざしにまぶしく照っていた。
それから二か月が経った深夜──
木助は、隣家から妙なざわめきを聞いた。はてと耳をすませると、さかいの木戸がかすかな音を 立てた。ほどなくトンと縁側に上がる足音。障子を開け、するりと入ってくる黒い影。
あっちだ、木助さんちだ!
となりから叫ぶ声がする。
細くしてあった灯芯をいっぱいにひねると、急に明るくなったのにひるんだ賊は立ちどまった。
頬かむりもしておらず、大人になりきってない子どもの顔が浮かんだ。
おまえは──と、はっとしたとき、庭がざわめき、大勢の足音がした。
「木助さん、起きてるかい」
「あ、ちょっと待ってくれ」
うす汚れた顔と手足の子は魔術にでもかかったように、身動きできないでいる。春に四十雀の雛 を渡してくれた子だ。あのとき手のなかを見ていた眼が浮かんだ。
「行け」
と木助は店先のほうをあごで示した。
男の子は身をひるがえし、すぐに店のかんぬきを外す音がした。
それから木助は裏庭の障子を開け、声を張りあげた。
「なにか、あったのかい」
「こそ泥が入ってきやがってよ。こっちへ来たようだったが」
「いや、気づかなかったな」
「明かりが大きくなったぞ」
「そりゃ、おまえさんらが騒がしいから、何事かと思ってさ」
おかしいな、あの野郎、どこへ逃げやがったんだと、となりの住人たちはてんでにつぶやきなが ら、木戸をくぐって帰っていった。
木助はとなりの売子の樹を見あげた。
白い小花が満開だった樹は、いまは薄い柳色の実をさくらんぼのように付けている。家の明かり に照らされ、梢の闇に浮かんでいるのが、空に連なる星のしずくに見えた。
樹にいた四十雀の親子は、いつの間にかいなくなっていた。小枝やぼろ屑で作られていた巣も、 棲む者がいないと壊れてしまうのか、いまは影も形もない。
隣家の娘もいないが、かみさんの実家の信州で養生しているということだ。
よくなって帰ってくるとも。
それから、あのガキもよくなるとも。