第二話 冬の陽炎

 室町三丁目の白粉屋を見たあと、「お七ちゃん、またね」と友だちがあいさつをした。

「またねぇ」あたしもそう言って別れた。

 きょうは、家へ帰ろうかなって思う。もう三日帰ってないし、巾着のなかは、からっけつ。おっかさんの怒った顔を思い浮かべると、気分は重くなる。ふらりふらりと歩いた。

「よっ、べっぴん。なんか買ってあげよか」

 娘ひとりだと思った助平親父から声がかかった。

「なんだよ」と横目でにらみつけてやる。

「おっかねえな、この娘、あぶねえ目つきしてやがる」と逃げていった。

 にぎやかな室町通りを過ぎ、左に曲がって新大橋通りを渡り、延々と歩く。

 やがて、ところどころに畑の広がる田舎の風景。このうんと先にあたしの家がある。

 新しい材木に新しい茅葺きが明るい町並み。この辺りは火つけによる火事が多いそうだ。

 二年ほどまえ、五十近いおとっつぁんが、やっと手に入れた平屋建てだ。

 それまでいた八百屋の二階から引っ越すのは、あたしはいやだった。

 幼な友だちと別れるのも悲しかったし、町ん中のその六畳ひと間のほうが、くつろげた。ひと間に家族五人が住んでいたので、狭くて年じゅうぐちゃぐちゃだった。

 今の家はこぎれいだけど、散らかすとすぐに怒られる。借金を返すため、おとっつぁんもおっかさんも夜遅くまで働くようになった。最初のうちこそ、みんな喜んだけど、親たちはほとんどおらず、家ん中はひんやりしていて、家族みんながいつもふきげんだった。

 あたしは朝御飯まえに近くの踊りのお師匠さんのところへ稽古に行く。御飯がすむと湯屋へ行き、つぎは三味線の稽古だ。

 お午が過ぎると、琴の稽古だけれど、これは近所ではなく、日本橋に近い本小田原町の元のお師匠さんのところへ行く。これはあたしが断固主張した。帰りに今川橋から日本橋にかけての賑わいが楽しめるし、今までの友だちにも会えるからだ。

 親があたしに稽古事をさせるのは、旗本の家にでも奉公させて玉の輿に乗せたいから。

 でも、もう三月もお稽古には行っていない。行くふりをして日本橋あたりで遊び歩いている。費用はお師匠さんへのお月謝だ。

 親に嘘をつくのにも飽きてきたとき、友だちが泊めてくれた。家へ使いを出してくれたが、ほんとは一晩だけのはずだった。それから遊び歩いてずるずると三日が過ぎた。

 おとっつぁんもおっかさんも怒りまくっているだろう。

 

 あたしは町育ちだから、この辺りの畑で、なにを作っているのかさっぱり分からない。今は冬だから、黒々とした土が掘りかえされ、何本もの畝が走っていることだけは分かる。

 ところどころに大木の古いのが佇んで梢を広げていた。畑の向こうに夕方の太陽がぼんやりした光を放っている。あたしは冬の夕暮れの、この寂しい光が大きらい。

 そして、それが現れた。

 はじめは、冬の鈍い陽かと思ったが、それ以上にうすい光が畑にたなびいたかと思うと、もやもやと揺れた。陽炎のようだった。でも、陽炎って、春とか、夏の道路なんかに見られるものじゃないの。

 そう思って目をこらすと、そのもやもやは古い大木の、今は葉を落とした一番下の枝のあたりから地面近くまで、まるで樹の精霊のように、ふわふわと揺れていた。

 陽がしずむと辺りは暗くなった。陽炎も見えなくなったと思ったが、家並みのあるほうの道を曲がっていく。

 暗くなると、その金色は鮮やかで、輝きを放っているように見えた。遠くにゆらめく陽炎は、まえを行く酔っぱらいのすぐ跡を追いかけているようだった。

 その酔っぱらいは、だいぶまえからあたしのまえを歩いていた。だらりだらりと歩き、この人も家に帰りたくなさそうだった。

 陽炎の揺らめきは、しだいに男との距離をちぢめていく。でも酔っぱらいは気づかない。

 男は家に着いたらしい。あたしがいつも通りすぎていたある家の木戸門を開けて、その中に入っていく。陽炎もつづいて入っていく。

「帰ったぜ」という男の声が聞こえた。

 通りすぎてから、なんとなく気になって、その家を振りかえった。

 戸障子のあたりがやけに明るくなった。つぎの瞬間ボッと音がして、家のあちこちから金色の炎が噴きだした。炎はまたたく間に広がり、家を燃やしていく。やがて茅葺屋根からも炎が噴きあげて夜空を焦がしたので、辺りが明るくなった。

 あちこちから人が出てきた。この静かな田舎のどこに、こんなに人がいたのかと思うほど、どてらや綿入れを羽織った男や女や子どもたちが、うじゃうじゃと湧いてきた。

 火消したちが到着することのなんと遅いことか。家がほとんど燃えてしまってから、濡れむしろをかけたり鳶口で家を壊しはじめた。

 やがて火事はおさまり、火消したちは帰っていった。野次馬もひとり去り、ふたり去りして、辺りはまた静まりかえった。

 茫然と見ていたあたしは、家へ帰るつもりだったことをようやく思いだした。ここからもう少し歩かなければならない。

 道を曲がったときだった。

 あたしのまえに金色のもやもやが揺らめいていた。あたしが右へ寄れば、陽炎も右へ揺らめき、左へ寄れば左へ揺れる。陽炎はまるで後ろに目があるみたいだ。

 火つけ陽炎はこんどはあたしの家を狙っている。

 二、三軒さきに、あたしの家が見える。父と母が長年ちまちまためたお金を元手に、身分不相応の借金をして買った家が。

 あたしはだっと走りだした。先をゆく陽炎を追いかけた。裾を乱して走り、金色のもやをとうとう追い越した。家の木戸門のところで振りかえると、陽炎はゆらゆらとこっちへやってくる。あたしは門を開けた。

 それから腰高障子の戸に急いで手をかける。それは金色にまたたきながら、ずんずん近づいてくる。

 あたしは家の中には入らず、戸を思いっきり大きく開け放った。

 陽炎はあたしの横を通り、すうっと中へ入っていった。