(三)隠れ月

 小さな島で行われる集まりに誘われた。日本海側の某県から数十キロ離れたその島は、これまで聞いたこともない名前がついていた。地図をみると、集落は二箇所だけ。それ以外は山と畠のようだ。南東側の新潟からのフェリーが着くAと、西北側にもうひとつ、こちらも海岸沿いのB。

 月齢カレンダーを見る。集まりがある日は、十四夜だ。一日滞在を伸ばせば満月となる。この島からはどんな月が見えるのか。考え出したら止まらなくなった。

 Bからは海に月は浮かばないけれど、山の端にかかるだろう。Aではきっと海から月が昇る。少し出っ張っているところまで歩けば、沈むところまでの軌道のすべてを眼に納めることができるかもしれない。

けれども、こんな風景でこんなふうに出る月が見たいと、こまかく予想をすればするほど、月はその通りの姿を見せてくれない。天文や地学のにわか知識を駆使して計算したところで、碌な結果にはならない。とはいえ、わざわざ延泊するのにまるで見当違いな場所では困る。

 島役場の観光課に電話をかけた。

「はあ、月ですか……。島内、どこでもよく見えますけど。明るい場所がほんどないですから。本州の岸は、天気のいいときにわずかに見えるだけだし、灯台や明かりがあるわけでもないから、夜の海が光ることもないですねえ。でも夜は本当に暗いから、出歩かないほうがいいですよ」

会の後で一人残るべく、Aに宿を予約した。集落の一番はじっこの宿は、細く突き出る防波堤の突端にもすぐに出て行ける場所である。

 フェリーが港を目指してぐんぐんと近づいて行っても、島はあまり大きくならなかった。その気になれば容易く一周できてしまうようにも見えたが、島の周りを一周する道はないし、無理だという。北西側の海岸にある集落に行き着くには、どうやら島の真ん中にうねる山道を行かねばならないらしく、山はそれなりの標高を有している。

車に乗せられ島を横断する山道を登っていく。南東側の山のほとんどが葛で覆われていた。島民の高齢化にともなって田畑が放置されたためだ。葛一色で覆われた山肌は、日本というよりオセアニアの牧羊の島のように見えた。

 午前には雲の切れ間に青空を見せていた空は、どんどん増殖する雲に呑まれていった。台風が近づいていたのだ。せめて十四夜のうちに通過するか熱帯低気圧になってくれないだろうか。町の集会所で行われた研究発表会の後の懇親会をそっと抜け出して、空を眺めてみたものの、雲は風に押されて進むでもなく、もったりと空全体にかかっている。

 結局台風はゆっくりと十五夜を目指して島にやって来た。朝から小雨がばらつき始め、波が高くなり、午後に出るはずだったフェリーは欠航となった。夕刻には島全体が、暴風雨に揉まれ、外に出て空を眺めるどころではなくなった。

宿の部屋でビールを傾けながら、テレビに映る天気図を眺める。自分があとにしてきた東京では、台風が通り過ぎていた。

 流れゆく雲の合間で、満月がギラリと光っているよ。

 振動とともに、携帯電話に文字が浮き上がる。ひとつ満月を逃した。下手に移動したために、一生のうちにとりこむべき珠を、ひとつとりこぼしてしまったのか。いや、そんなものがあるとしたら、こういう取り逃がし分も、おそらくハナから計算されているはずと思いなおして、ビールを空ける。

 深夜になって、風雨は止んだ。宿のサンダルを突っかけて海岸にでてみるものの、ひろい空のどこにも雲が切れそうなところは、見当たらない。のったりと湿った空気が身体にまといつく。

 諦めきれず、薄明時刻にアラームをかけて起きた。月の入りまで、まだ二時間以上ある。携帯で天気図をチェックすると、台風は完全に抜けていた。海岸に出向く。しかし空はやっぱり分厚い雲に覆われている。雲のせいでそもそもの夜の闇が白っぽい。そのまま雲の奥から白味が増して、ぼんやりと朝が近づきつつあった。波音は撫ぜるように優しい。

 暗がりからだんだんと、猫が二匹並んで歩いている姿が、判別できるようになった。湾に突き出した防波堤の先端を目指し歩いている。釣り人が残したものでも食べに行くのだろう。先端にたどり着くと、片方が首を伸ばし、白く丸いものを水面から咥えあげた。薄暗がりに白い色が揺れる。くらげにしては、白すぎる。海水を吸ったらしきそれは、かなり重いらしく、猫はコンクリの上にべたりと放り出した。もう片方の猫が前肢で生死を確かめるように踏み込む。それから二匹でおもむろに噛み付き、食べはじめた。魚なんだろうか。眼をこらしても、はっきり見えない。

 空に眼をやっても、雲が動きそうな気配はなかった。なにもかもはっきりしないまま、少しずつ明るくなってきた。

 朝食後、宿の会計を済ませるときに、現在この島には、哺乳動物が一匹もいないのだと聞かされた。

 言い伝えだと、もともと鳥だけしかいない島だったんだってよ。それこそ昔はいろんな動物を本州から運びこんで飼ったりしてたんだけどね。馬も、牛も、豚だって飼ったさ。猫は……。村長の家で飼ってたのが年取っていなくなって、もう十年くらいになるかなあ。

 あれが最後だったねえ。二匹いたんだけどね。

 フェリー船が島を出港する時間になっても、空にのしかかる雲は動く気配を見せなかった。