(二)おおつごもり・元旦

 前日まで連日人と会い飲む予定があったため、この大晦日は、家でずいぶん早くベッドの中に入ってしまった。ぼんやりと何もしないまま、除夜の鐘を聞いた。

 去年の年末は、ベトナムに行っていて、ハノイで働く日本人たちにまざって紅白歌合戦を見ていたんだっけ。ベトナムはどこもかしこも年がら年中曇っているのだと、着いてから聞かされた。その通りだった。二週間の滞在中に月を見れたという記憶もない。

 その前の2010年は、ライブを聴いて、飲んで、近所の明神様で並んで鐘をついたのだっけ。高々と南中した月は、正真正銘の満月で、しかもブルームーンだった。

 月の周期は約29日であり、グレゴリオ暦の一ヶ月は二月を除いて30か31日である。月初に満月があたれば、月内にもう一度満月が来る。それがブルームーン。青く見えるわけでもないのに、ブルーなムーン。

 毎月毎月、満月を区切りに生きている私には、ちょっとしたプレゼントをもらえた気分になる。

 せっかくだからブルームーンの昇りはなを見に行こうと友人と一緒にゆりかもめに乗って国際展示場の裏側の湾岸に出ようとしたのだが、空き地にフェンスが張り巡らされていて、届かない。届かないだけでなく、だれもいない空き地を歩いていて、不審者に間違えられそうになってしまった。グーグルの地図上では、東に抜けて、いい感じに水平線から月がでてくるところを捉えることができそうだったのに。残念。

 震えながらライブ会場に移動して、年が変わるのと同時に高々上った満月を堪能した。冬に南中する満月は、身体と首を思い切り反り返らせて、眺める。軟球を真上に放り投げては、グローブでキャッチする遊びを思い出す。手が放つ力でぐんぐん上がる軟球が、空で一瞬止まる。その瞬間と、今高々と天空にある満月と、スピードは違うのだけれど、同じことなのだ。放り投げられ、昇りきった冷月。

……それでその前の月はどうだったっけ。覚えていないなあ。そのもう一年前、2008年なら覚えている。細い細い月だったのだ。谷中の町を、消え入りそうに細い月だけを眺めて歩いていたのだっけ。あの頃は、月だけを眺めていれば、なんとかなると思っていた節があったな。ふふっ。なんともならなかったけれど、少なくとも嗤い飛ばせるようにはなるのだなあ。

 少しだけでも月を観に外に出ようか。

 屋上に上れば絶対見えるはず。わかっているのだけれど、身体が動かない。今夜はお酒も入ってないのに特別に布団や毛布が心地よい。携帯でツイッターを開いてみたけれど、みんながテレビのことをつぶやいていて、なにがなんだかわからない。はやくテレビをつなげなきゃねえと思いつつもう半年経っちゃったな……。

 さっきから見ようとしていたDVDも、スイッチを入れられないまま、ぼんやりうとうとし始めた。ああ気持ちいい。鐘の音が低く響いている。死ぬときもこんなふうだったらいいのに。

 気がついたら朝だった。あらあら電気も暖房もつけっぱなしのままだった。なんて怠惰な新年。でもいいのだ。だってまだ六時半だけど、これからすぐ支度をして、鎌倉の実家の朝食に間に合うように電車に乗って帰るのだ。十分すぎるほど真面目じゃないの。

 さっと身支度をして、バッグを担いで外に出る。外はもう十分明るい。空が青く澄んでいる。あと少しで初日の出だ。新年早々犬の散歩に出ている人たちは、どこかでこの日の出を見るのだろうか。

 ふと道の向こうの西の空を見たら、白い月が沈みゆこうとしていた。中層マンションの屋上についた水道タンクにぐんぐんと近づいている。十八夜。痩せかけているけど、その痩せ具合が一番中途半端で、なかなか注目してこなかった。すまないねえ、十六や七に比べると光量もぐんと減る気がしてねえ。同じ欠け具合でも、十二夜ならば、もうすぐ来たる満月を想って熱心に眺めるのに。

 あけましておめでとう、というまさにそのときに、沈みゆこうとしているなんて。かえって目が離せなくなって、ぼんやりたたずみ眺めていたら、視界の中で何かがもぞもぞと動いた。男性が中層マンションの脇についた外階段を黙々と上っていたのだ。こまかくジグザグになった階段をせかせかと上がっていく。

 屋上まで上がって、水道タンクの梯子に手をかける。ああ、ビルの屋上から日の出を見るのか。となりの高層マンションに登れば、もっと見晴らしがいいだろうに。

 水道タンクの上に立ち上がった男は、こちら側、つまり東に背を向けたまま、大きく手を伸ばして、十八夜月にすっとつかまった。ちょうど彼が両手を目一杯伸ばした長さが、月の直径なのだった。手足をバタバタ動かすうちに、彼の全身はうまく月に乗り移り、さらにバタバタと動かすうちに端を乗り越え裏側に移り、なんとも中途半端なカーブを描く月の端を掴む二つの手だけが、黒い点となって残った。それも月全体が水道タンクの向こうに沈んでいって、すぐに見えなくなった。

 だれもが東の空を眺め、初日の出を待つ間に、西の空で起きていたこと。