西にまっすぐ向いた坂の途中で、上限の月を捉えた。古い坂の勾配は、椿の花首が転がり落ちてゆくほど急だ。両脇を電線や街灯に飾られ、坂の上がり端に大きくポカリ浮かぶ姿は、濃い黄色で、さきほど飲んだカクテルに使ってもらった文旦の房を思い出す。
文旦は古い友人から送られてきたものだった。ひとつひとつが生まれたばかりの赤子の頭よりも大きかった。どこまでも黄色く果汁ではちきれそうな文旦を手のひらに乗せて、重みを味わっていると、陽光の子どもという言葉が浮かんだ。
子どもたちの福福しさは、通常の柑橘類が醸し出すそれの何倍にも増幅されていて、それが十個もぎっしりと詰め込まれた箱を開けたときには、台所一杯に溢れて恐怖がまさるほどだった。JAの出荷倉庫には、これが千個、万個の単位で詰まっているのだろうか。農家はこの大きさに慣れてしまうのだろうか。しばらく巨大な倉庫にぎっしり詰まった子どもたちの姿を想像して、陶然と背中の毛を逆立てた。
カクテルはジンをベースにして絞った果汁を加え、百円玉くらいに丸く切り取った皮を軽くあぶったものがのっていた。グラスの縁には半分だけ、細い月のように砂糖をまぶして、それがカウンターのスポットライトを浴びて煌いていた。ずいぶん洒落たものに化けるものだ。
家で爪を立てては堅牢な皮を剥がし、白い緩衝材のような筋と繊維をとりのぞき、薄皮をめくるようにして果実をあわらにしては、口に放り込んだときには、自分が猿になったようだった。いや、違う。正確には猿になって皮も何もかも気にせずにむしゃぶりついて、口に残った残滓を地面に吐き出せたら、どんなに爽快かと思いながら、指を赤くして皮と格闘していたのであった。
カクテルを口にすると、喉からまっすぐ身体の芯に氷柱が降りたように冷えた。氷柱を抱え身体の熱で暖めながら、うとうとと眠くなり、文旦を送ってきた友人の娘が浮かんだ。しばらく会っていないが、もうすぐ身体の成長が止まり、内面と外面との葛藤の折り合いをつけるのに面倒な戦いをしている頃だろう。
いつの頃からだろう。彼女と友人を介さずに直接話してみたいと思うようになったのは。友人からの娘についてのメールと、数回友人を交えて彼女に会った印象が、うまく重ならなかった。友人は自分の見たいように娘を見ているのではないか。この娘は女らしい格好が嫌いなのよと言って髪を短く切り、そっけない服を着せていた。長いつきあいの友人の、まるで別の面を見せられ、戸惑った。華美な服装を嫌って許さなかった自分の母親と、友人の姿がすこしだけ重なった。
親の立場で子どもを客観的に見るのは難しいのだろう。そして自分のほうが彼女を正しく捉えているというわけでもない。私も私が見たいように、自分の子ども時代を重ねて彼女を見ているのに過ぎないのかもしれない。それでも気がつくと、友人自身のことよりも、ろくに口もきいたことのない娘のことばかり考えてしまう。彼女は母親からの目に「ズレ」を感じていまいか。それを重荷に思っていないか。いや、今はなんの疑問も感じないで母の言葉がそのまま自分の意思と思っているのかもしれないけれど、いつか違和感を覚えるようになるのではないか。
たびたび私のなかに立ちのぼるこの気持ちを形容するとすれば、「余計なお世話」というものだ。何度となく自分に言い聞かせては、抹消してきた。
坂の上にでた上弦の月は、半分より少しだけ多く、舳先をわずかに持ち上げた箱舟のようにも見える。文旦の果汁で満ちた舟は、坂道を登るとすぐに届きそうであったのに、上りきるとはるか遠くに行ってしまった。すこしだけ寄り道をして、舟が沈んでいく方へ、西へ西へとがむしゃらに歩いてみた。歩いているうちに、耳が冷たくなり、頭が痛いほど冷え切り、友人のことも娘のこともどうでもよくなった。うまく舟に乗って西の向こうの太陽が上る場所へと沈んで行ったのだろう。
いつかあの娘と二人きりで話ができる日が来るとしたら、それはきっとあの娘がもう少し大人になって、自分の言葉を持って母親を見るようになってから。今はまだ、彼女の箱舟に、だれも一緒に乗ることはできない。
元来た道を引き返し、帰路についた。