第十四話 雨の匂い

 あの娘にしよう。

 目にとまった瞬間、喜次郎はそう思った。

 小女と年増の二人をお付きにした町娘だ。振り袖にこっぽりを履いている。どこのお嬢さまだろう。日本橋室町通りは十軒店に差しかかったときだった。雛市の季節であり、屋台の人形屋も多く、人出のはげしいところだ。用足しも終わっていたので、その三人連れのあとを尾けていった。

 もうじき三十になる喜次郎は、大天満町の木綿問屋に奉公して十五年以上が経つ。さわやかな外見のうえ、目端の利く働きぶりに、来年は番頭になる予定だった。

 しかし、今まで女に縁がなかった。あとは嫁さんだけだとか、選んでいるなどと、ずっと言われながら、なんとなくしそびれてきた。

 そこへ喜次郎の目に飛び込んできたのが、その娘だった。 

 娘の供をしていた小女のほうが、あらと叫ぶと、かんざし屋の店に飛び込んでいった。

「あらあ、お待ちを……」と年増の供まで中に入って行った。

 主である娘はひとり店のまえで佇んでいる。通りすぎようとして、畳んで袖下に入れてあった風呂敷を喜次郎はそっと落とした。

 娘がはっと息を呑む気配がし、つづいて「落ちましたよ」と声をかけてきた。

「これは、どうも。ご親切に」とあともどりした。

娘の近くへ寄ると、ほのかな香りがした。なんの匂いだろう。花の香りや白粉のものではない。どこか心を落ち着かせる匂いだった。恥じらって、なかば伏せた長いまつげからは、しずくでも滴りそうだ。 

「海を見に行きませんか」思わず誘っていた。

「水?……はいや」娘はかぶりを振った。

「ああ、じゃ、どこがいいかな」急いでつけくわえた。

 娘はくるりと後ろ向きになり、振り袖がゆれた。道ばたで声をかけたのだから、こりゃ振られたな、と思ったとき、

「いつ……」消え入るような声で娘は言った。

「明日、八つ、神田明神で」ほとんど思いつきだった。

 娘は後ろ向きのまま白い首でうなずいた。

 にぎやかにはしゃいだ声がして、供の女たちが店から出てきた。

 そのまま三人連れは、室町通りの店をひやかしながら、紺屋町のほうへ歩いて行った。

大きな干し場に何本もの反物がゆれる染物屋のまえに立ち止まると、

「今日一日貸してあげる。そのままお帰り」小女が娘にそう言って、中へ入って行った。

「明日の朝、ちゃんと返すんだよ」と年増のほうが娘の振り袖を指さした。

 妙な会話と、取り残された娘が、ひとりで歩いていくのが気になり、喜次郎はさらにあとを尾けて行った。娘は両国橋を渡り、向こう両国の見せ物小屋のあいだを縫っていくと、その奥のみすぼらしい家の腰高障子を開けた。

 その家からも、娘にかいだ匂いがしてくる。

「お帰り。どうしたんだい、その装りは」という声がする。

「お嬢さまが、あたしのと取りかえたいとおっしゃってね、今日だけ貸してくれるというから」

「お嬢さまは変わり者だね。汚したら大変だよ」

 喜次郎は顔が蒼ざめていくのが、自分でもわかった。なんだ、衣装の取り替えっこしていただけなのか。家の藁屋根にはペンペン草が生え、強い雨でも降ったら、いまにも崩れそうである。腰高障子の板は湿りきって黒ずんでいる。そのうらぶれたようすに、喜次郎は身をひるがえした。

 翌日の八つになっても喜次郎は出かけなかった。あの娘がいつまでも待っている気がしたが、仕事が忙しいのだと自分に言い聞かせた。     

 三か月が経った。しかし喜次郎は娘のことが忘れられなかった。その間、縁談もいくつかあり、いざ決まりそうになると、どうしてもあの娘でなければならない気がしてくる。

 その日、郡代屋敷へ反物を届けに行く用をすませると、喜次郎は両国橋を渡った。見世物小屋の間を縫って、迷いながら娘の家にたどりついた。

 家は昨年見たときよりも、さらにうらぶれている。あんなことをしたので、ここへ来るのに迷う気持ちもあった。さぞかし向こうは怒っているだろう。しかし、こんな家の娘なんだ、喜次郎の誘いに飛びつくはずだと考えた。

「ごめんくださいまし」

 声をかけながら、腰高障子を開けた。開けると、中からかびた匂いがし、顔や肌が湿気におおわれる気がした。

 出てきたのは、あの娘だった。粗末な装りをしていたが、やはりうっとりするほど美しい。喜次郎のことを覚えていたらしく、

「あら……」と言って、目を見張った。

しばらく見つめあったうえに、

「ぜひ逢いたいんだ。明日……」と喜次郎は思いきって言った。

「明日の八つに神田明神へ来いって? 行くと思います?」

 娘になじられるのは覚悟のうえ、皮肉られるのは仕方がない。

「いいですよ。参りましょ」しかし娘は気軽に承諾した。それからいぶかしげな表情になった。「でも、どうしてここがあたしの家だとわかったのです」

 喜次郎が答えられないでいると、

「わかりました。この前、あたしの後を尾けたのですね。そして、あたしがお嬢さまでなく、こんな家に住んでいたから、あの日、来なかったのでしょう」

 娘はそう言うと、大胆にも喜次郎の近くにするりと寄ってきた。

「でも、あなたにお目にかかれるのをずっとお待ちしておりました。もう遅いけれど」

 言いながら喜次郎の袖をとったり、肩に白い手を置いたりした。娘からは、あの心落ち着く匂いがした、花の匂いでも香の匂いでもない。

 翌日、喜次郎は約束の場所に出かけた。娘はきっと来ると信じていた。

 しかし、いつまで経っても娘は現れなかった。

――そうか、三か月まえの仇をとるために約束したのか。あたりまえだ。

 空が黄昏れてくるとともに、雲行きも怪しくなってきた。雨が降りそうだ。大気が湿っぽい。そして、やっと気づいた。娘にかいだのは雨の匂いだ。

 気づいたとき、娘の声がした。

――あたしは雨の精。本気であたしを好きになってくれる誠実な男がいたら、人間になれたのに。あのとき、あなたが来てくれていたら……。

 はっと振り返ったが、辺りはうす墨いろの闇があるだけだった。 

――気のせいか。

 自分のしたことに打ちひしがれて、家に帰った。

 翌日、昨日の小袖を着ようとすると、小袖にはなにか文様が浮かんでいる。よく見ると、それは黒い黴(かび)であった。娘がすり寄ってきて触れた箇所、肩や袖など。

 その黴は、こすっても、洗っても、落ちなかった。