第十三話 桜の樹の下

 とうとう桜が咲きはじめた。長く寒い冬は終わったのだ。

 しかし清兵衛は、この季節が好きではなかった。

風はなまあたたかく、それでいて強い。樹々の枝がやたら振り立てられ、どうにも落ち着かない。

 それに江戸での花見は、故郷のそれに比べると風が冷たく、うすら寒く感じる。子どものころの花の季節は、蕩けるような暖かさがあった。十三のときに江戸へ出てきて四十年も経つから、たんに年を取って冷えを感じやすくなっているだけかもしれない。

 用足しが早く終わったので、もうひとつ寄ろうと室町通りを日本橋に向かっていた。桜が咲く時期は、人びとの顔つきや足取りもどことなく浮かれているようだ。

花見の宴にもずっと行っていない。

 きょうは起きたときからなんだか変だった。さっきの商談の合間にも誘いがあったが断った。大事な顧客だったが、いやな気分が抜けきれず、この気候のせいか首を縦に振れなかった。店を出るとき、女房が清兵衛の後ろ姿をずっと見送っていた。それも変といえば変だ。

 

もうひとついやな記憶がある。

 十年まえのこの季節に一人息子が家出していた。甘やかしすぎたのか、十六を過ぎたころには、いっぱしの悪(わる)になっていた。賭け事、女遊び、借金、喧嘩と、もめ事ばかり起こしていた。打ちすえたり、蹴飛ばしたりもし、あいだに入った女房はただ嘆き悲しむという日々がつづいた。

 父親の小言と母親の涙に、本人もうんざりしたのだろう、やがて家を飛びだし、それきり行方知れずになっている。

 暖かそうで、どこか底冷えのする日だった。暖かさに頭のなかはぼうっとしているのに、風の感じが体の芯に入ってくるような、こんな日だった。

 ひと捻りの銭を袖の下に突っ込み、平吉の身柄をたびたび引き取ってくれた岡っ引にもたのみ、八方手を尽くして探したのだが、行方は杳として知れなかった。

 清兵衛の苦労を知っているその岡っ引に会うと、

「子どもってのは、見ないは、ないもおんなじさ。親が思うよりちゃんとやってるよ」となぐさめられた。

そういえば、子どものいない日々は――もめ事のない日々ではあった。

 でも、あいつがまともだったら、今ごろは孫の一人や二人、花見の宴で騒ぐ姿も見られただろう。

いや、こんなことを考えるのはやめよう。そう思いながら日本橋を渡りきった。

 渡りきったとき、あたりの風景がいつもと違うような気がした。

 なにか変だ。たしかに日本橋の南橋詰めの景色ではある。高札場があり、土蔵の多いところもおなじである。

 橋を渡りきった先に一本の桜の樹があった。

 上野の山の何百本という桜も見事であるが、いつもなにげなく素通りしていた場所に、おや、こんなところにも桜が、と気づくことがあり、みょうにほれぼれと見ることがある。

 清兵衛は、足をとめた。息子の姿を見た人が数人いて、一番あとの場所がここだった。探し回っていたときは何度も足を運んだが、いつも花は終わっていたし、咲いているところを見たことがなかった。

きょうはよく咲いている。やや満開をすぎ、散りかかりはじめていた。

 そして清兵衛はようやく気づいた。古びていた鶴屋ののれんが真新しい。反対についこのあいだ新築したはずの橋番屋の床店が古くなっている。まわりの景色は十年まえのものだった。 

そう思ったとき、息子が桜の樹の下に立っていた。十年まえのほっそりした姿のまま、上目づかいにこちらを見ている。

 ――平吉ではないか。

 急いで駆けよった。たしかに我が子だ。

「よく無事でいたなぁ。どんなに心配したことか」思わず涙があふれた。

「おとっつぁん……そんなに俺のことが」

「ああ、そうとも。悪かった、悪かった。もう殴ったりしない」

「逃げたりして悪かったよ」

「おまえは世間から逃げているとずっと思ってきたが、それは違う。わしがおまえから逃げようとしていた。もう逃げたりはしない。おまえはおまえだ。なにがあろうとも、おまえはわしの子だ」

「そんなふうに思ってくれるのか」

「ああ、そうとも。だから帰っておくれ、な」

 平吉は、うすい肩を落として、いつもに似ず素直にうなずいている。

 手をにぎろうと、さらに近寄ったとき、平吉の姿はかき消えた。

桜の樹の下には、散りかけの花びらだけが舞い、あたりの風景も元に戻っていた。

 ――なんだ、幻だったのか。

 

 用を終えて帰る道すがら、桜の樹に目をとめたが、なんの変わりもない。

 しかし、と清兵衛は考えた。平吉はあの樹の下で瞑っているのかもしれない。家へ帰ったらすぐ、あの岡っ引から同心の旦那に話してもらって、いちど堀り返してもらおう。いやな、不吉な予感だったが、そうしなければ平吉も浮かばれまい。

 女房は、なんと言うだろう。そんなのはいやだと言うに決まっている。平吉は生きていると。

 あれこれ思い迷いながら、多町一丁目の店にたどり着いた。

「おまえさん、遅かったじゃないか。お弁当はできているよ」女房の明るい声がした。

「弁当だと?」

 夕方のこんな時刻に、なぜ弁当がいる。

「おとっつぁんか、お帰りなさい。話はまとまりましたか」

 男の声がし、清兵衛を迎えたその顔を見て、あっと声をあげた。

「へ、平吉……」

「どうしたんです、 びっくりした顔をして」と平吉が言った。

 前掛けをきっちり巻き、しゃんと立つ男の姿は三十ちかく。たくましい肩をしていた。

「今朝、おっかさんと話していたでしょ。きょうは夜桜でも見にいかないかって」

 あっけにとられている清兵衛のまえに、二人の女の子がまつわりついてきた。

「じいさま、いきましょうよ、ね、ね」

「あ、ああ、いいとも、いいともよ」

 清兵衛は、すっかりその気になっていた。