第十一話 霜の声

 ──では、お待ちしておりますんで。

 未智は床のなかで目が覚めると、すぐにその言葉を思いだしていた。

 十日まえから、その言葉をなんど反芻してきたことだろう。そして、それよりもさらに何か月もまえから、その言葉をどれほど待ったころだろう。

雨戸の隙間からもれる光は明るく、晴れであろうと思われた。

 寝間着のまま廊下に出て、雨戸を細めに開けて外を見る。きらきらした陽光が戸外にあふれている。晩秋にしてはまぶしいくらいだ。冷気が光を透明にしており、するどく眼につき刺さってくる。

 ほんとは、きょうのような日は曇っているくらいがいい。わたしは悪いことをするのだから。

 ──星のささやきって、ごぞんじですか。はるか、おろしあの北の果てでは、うんと寒くなると氷の霧が出て、町じゅうが乳色になるそうです。いいえ、あの霧とはちがいます。もっと寒いと、人の吐く息さえ凍ってしまい、かすかな音になって耳に届くそうです。その土地の人たちは、これを星のささやき、と言っているのだそうです。

 ──とても寒そうだけれど、いちど聞いてみたいものね。

──霜の声は? 霜ができるとき音がするんです。

 ──踏みつけたときの音じゃなくて?

 ──踏みつけたときじゃありません。雪の降りはじめの場所があるように、霜のできるとき音がするんです。

 

そんな会話をしたのが、何か月もまえのことだった。

「どうしたんだ」後ろで光蔵の声がした。

 はっとして振りかえる。まだ眠っているとばかり思っていたのだ。光蔵が雨戸からもれる光に目をしばたたかせながら、未智の背中をじっと見ていた。ずっと眺めていたのだろうか。自分の考えを見透かされたような気がしたが、なにげなく答えた。

「天気がどうかなと思って」

「どこか出かけるのか」

「いいえ」嘘をついていた。「どうして」嘘をかくすために逆にたずねる。

「天気なんか気にしているからだよ」

「だって、洗濯物がたまってますから」

 また、嘘をついていた。このところ晴天続きで残っている物はなにもないし、意識して家の中を片づけてきたから、冬じたくもすんでいる。

「子どもたちを起こさなくちゃ」

 表情を覚られまいと手早く着替え、そそくさと廊下に出る。子どもたちの寝間の襖を開けた。

「さあ、起きなさい。これを着て」

 五歳と六歳の子どもたちがもぞもぞと布団から顔を出した。

「わあ、あたらしい着物だあ。きょうはおばあちゃんちへ行くの」

 府中にある未智の実家へ行くときは、いつも新しい衣服を着せるので、そう思ったらしい。

「ううん、寒くなったからよ」

 また、嘘をついている。そう思いながら、顔がかすかに強張るような気がした。白粉を初めてぬったときのような、凍った金具に手を触れたときのような、うすい霜が自分の顔に張りついている。

 井戸端へ行き、顔を洗うと、その霜のような感じは溶けていった。

 子どもたちは手習所に出かけた。めずらしくゆっくり煙草をふかしていた光蔵を、いらいらする思いで待ったが、ようやく出かけていった。

出口まで見送って、腰高障子が閉まるやいなや、未智は寝間に駆けこんだ。箪笥の奥に隠しておいた晴れ着一式を取りだす。襦袢も腰巻きも新しい。帯も念入りに結ぶつもりだったが、したくの時間が足りない。それでも、いつもより念入りに襟を抜いた。

 雪の降りはじめの場所も、霜の声も、言葉の綾にすぎないことは、もちろん承知している。きょうこそ行くところまで行ってしまうにちがいない。そんな確信があった。

 着替え終わると、鏡に映る自分の姿に満足した。未智、きょうは別嬪ね、と自分にささやいていると、入口の腰高障子を開ける音がした。姑の家の小僧だ。

「なあに」襖のかげに身をひそめたまま、返事をする。

「おかみさんが、きょうのお昼に歌の会をすることになって、急な話で申しわけないが、ちょっとお手伝いに来てほしい、ということですが」

「きょうは、琴の友だちと約束があって行けませんと、お姑さまにはよろしく伝えておくれ」

 もちろん嘘だった。

「あれ、途中で旦那さんと鉢合わせしまして、きょうは出かけないとお聞きしましたが」

 小僧は意地悪でもなんでもなく、襖のかげにいる未智に声を張りあげた。

「いいえ、出かけてから使いがきたの。いま支度の最中だからごめんなさいよ」

 これも、嘘だ。

 顔に霜のつく感じが、またしはじめていた。洗って化粧をし直す時間はなかった。頬を手でかるくたたくと、霜は消えていた。

 出ようとして、戸口の鍵をかけているとき、隣のおかみが声をかけてきた。

「あら、お未智さん、おめかしね。おきれいですよ。どちらへ」

「ええ、あの、ちょっと実家まで」

 嘘ばっかり。

 わたしって、かなり嘘つきだったんだ。朝起きてから短い間に、こんなになんども嘘をついたのは、生まれてはじめてだ。しかもとても上手に。そう思うと、朝の霜がさっきより厚くなってきたような気がした。歩きながら、頬をピタピタとたたいてみる。少しよくなったような気がしたが、ひんやりした強張りは、すっかりは消えなかった。

 待ち合わせ場所は室町通りにある三井越後屋である。江戸一番の大店で駿河町沿いは間口が何間もあり、大勢の客が出たり入ったりするので、かえって目立たないと考えたのだ。

 隅のほうの暖簾のかげに腰掛け、数本の反物を出してもらい、買い迷っているふりをする。

「あら、お未智さんじゃなくて」

 ふいに声をかけられて振り向くと、娘のころ琴の稽古で一緒になった昔の友だちだった。

 また、いくつもの嘘をついた。

 顔の強張りがはげしく、笑っていても笑顔になっていないのではないか、顔がゆがんでいるのではないかと思えた。

 友だちが去ると、手鏡をそっと取りだす。顔はますます冷たくなり、肌には霜が隠しようがないほど浮き出ている気がした。しかし、鏡に映った顔はべつになんの変わりもなかった。

 鏡をしまい、力なく腰掛けなおし、また反物を見るふりをした。

 

夫以外の男に恋をし、誘われて、何か月も考え通したあげく、やっと決心して出てきたのだ。もしだれかに知られたら、そのまま家を出る覚悟である。だから、子どもたちの衣服も新しいのに取り替えてきたし、何か月もかかって家の中をきれいにしてきた。光蔵を傷つけたり家庭を壊したりは、ほんとはしたくない。見つかりたくない。

 だから、朝起きてから半日もたってないのに、どれだけ嘘をついてきたことだろう。

 もし見つからなかったら、これからは、もっとたくさんの嘘をついていかなければならない。そのたびに顔の霜は厚く降りつもり、霜のついたお面をかぶって暮らしていくことになる。

 向こうのほうから、客のあいだをぬって男がやってきた。まだこちらに気づいていないようだ。

 未智は手提げを取りあげると、急いでその場を離れた。そして外の通りへ出た。男とは反対方向に歩んだ。顔に降りつもった霜は、明るい陽光のもとで、溶けながらかすかな音をたてた。

 未智は、霜の声を聞いたと思った。