さとは、井戸から水を汲みんだ桶を両手に持った。
大きなお腹には、その重さがこたえる。
こんな街なかでも、戸外は、そこここに明るい若葉が燃えたっている。敷居をまたぐと、台所の中は真っ暗だった。いっしゅん足をとめ、おもわず目をこらした。
目が暗さに慣れるまえに、耳のほうに声が入ってきた。
「おさとは、よく働くね、もう産み月なんだろ」とおかみさんの声だ。
煙草問屋である店のほうから聞こえてくる。
「信助さんに、よほど惚れているのでございますよ」
「そりゃ、けっこうなことだ。信助ってのは、そんなにいい男かい」
「そりゃもう、真面目で頼もしくって、おまけに男前。見ればだれでも口がほころびますとも」
「そんな男ならいちどお目にかかりたいもんだ。おまえ、年がいもなく妬いてるんじゃないかい」
「そうじゃございませんよ。訳ありなので。信助さんには、まえに女房がいたのでございます」
「おさとが追いだしたのかい。こりゃ話が面白くなってきた」
「いいえ、行き方知れずなんでございます。もうかれこれ三年になりますか。信助さんも、はっぽう手をつくして探したようですけれど」
「三年にもなるのかい。それで、おさとが後がまに」
「信助さんも、まだ二十五でございますからね。そうは待っていられませんでしょう。おさとが感心なのは、まえの女房が見つかったり帰ってきたりしたら、すぐに身を引くって言っているのだそうでございます」
「ふん、そうはいくかい」おかみの口ぶりは疑わしそうだった。
「それにね、おさとは毎日陰膳を据えているんでございますよ」
「まえの女房のためにかい。そりゃ感心だ」
「覚悟しながら暮らしてるのでございましょう。帰ってくるまでの束の間でいいからと。性根が可愛いじゃありませんか」
「そうだねえ。でもお腹はだいじょうぶかえ。ここで産婆さんを呼ぶ羽目になったら困るからね」
さとは、頃合いとみて、わざと音を立ながら、桶の水をかめに注ぎこんだ。
話し声はぴたりとやんだ。
水がめがいっぱいになった。それがすむと、きょうの仕事は終わりである。
裏口から細い路地をつたい、表通りに出る。通町に出るところで二匹の犬がじゃれあっていたので、蹴つまずかないようにした。煙管問屋の店先に顔をだし、あいさつをした。
「おさきにごめんなさいまし」
「ああ、気をつけてお帰り」おかみが言った。
女手代の姿はなかった。
海辺大工町の家へ帰る途中、ふたりのしていたうわさ話が耳から離れない。
……おまえなんかに、信助さんの気があるわけない。
むねの言う声がして、またずぶずぶと、過ぎた昔に引きずり落ちていく。
思いだしたくない。思いだしてはいけない。
さとは膨らみきった腹のあたりに手をやった。
──信助さんの子がここに宿っているのだもの。
さとの顔に笑みが浮かんだ。
……助けて、お願い。
しかし、またむねの声がする。
亀戸天満宮の藤棚を見に行った帰り道。家にもどるため、横十間川を歩いているときだった。
あっ、あそこに花がと、むねは土手を降りていく。そしてずぶずぶと川へ落ちていった。
──おむねさんは、信助さんをとったじゃないか。もともとあたしの男(ひと)だったのに。
むねは大工の棟梁の娘。雇われ大工の信助は棟梁の力に負けただけだ。それでやむなくお嬢さんのむねと一緒になったのだ。
……お願い、信助は返すから。
差し伸ばされる白い手。とっさにその手をとろうとして気づいた。
土手の草をつかもうと泥に汚れているが、むっちりとたおやかなことに。信助は、この白さとたおやかさに魅かれたのかもしれない。
差しだした自分の腕はあさ黒く、すじ張っている。
さとは、手を伸ばすのをやめた。
泳げないむねが、濁った水のなかにすっかり隠れるまで、そのまま立ちすくんでいた。
はっとして人を呼ぼうとしたが、不思議なことに辺りにはだれもいなかった。
さとは急ぎ足で家へ帰り、周りには、天神さまの境内で、むねとはぐれてしまったと言い張った。
──いくら探しても見つかりませんで、ひょっとしたら、先に帰っているかと思ったのですが。
日ごろから、無口で穏和なさとの言うことを、だれもが信じた。
さらに不思議なことに、横十間川に浮くはずのむねの遺体が、いつまでたっても上がらなかった。
信助も、最初のうちは、ひまさえあると天満宮へ行っては、人混みのなかにむねの姿を探し求めていた。
やがてそれも間遠になり、三年めには、いつもそばにいるさとに気づいた。
祝言をあげることもなく、藤づるがほかの樹にからみつくように、信助といっしょに暮らすようになった。その日から、さとは陰膳を据えるはじめた。
「おむねさんが早く帰るといいですね。そしたら、あたしはすぐに身を引きますからね。こうして何日かでも、おまえさんと暮らせるだけでも、幸せなのです。ただ、おむねさんが帰っても、お腹の子だけはいただきますよ。きっとおまえさんにそっくりにちがいありません」
陰膳は毎日欠かさず据えられ、冷えきった膳の物は、さとが毎日食した。
産み月はとうに過ぎているのに、さとの子が産まれてくる兆しはなかった。
周りも心配しはじめたある日、さとがのたうちまわって苦しみはじめた。
信助が走って、産婆を呼んできた。
「こんなに大きくなって。このままでは死んでしまう。早く出さないと」
産婆があわてふためき、さとをいきませた。
そのうち産婆が首をかしげはじめた。
いきんだうえに出てくるのは、食べ物のかけらばかりであった。飯の粒、葱のはしっこ、豆腐のかけら、ひじき、牛蒡など。
赤児を洗うはずだったたらいには、食べ物の滓が山のように積まれた。
さとの腹はぺしゃんこになった。
同時に、岡っ引が駆けこんできて、信助に言った。
「横十間川に遺体が上がったぜ。着ているものからして、おむねさんだよ、あれは」