第四話 早急の審議

 外は、雨が降っていた。

 朝のうちは、すごい土砂降りだったが、いまはだいぶ小やみになっている。それにしても、陰うつな雨だった。おまけに朝から女房とけんかした。

 明け番にもかかわらず、政之助が勤めさきの上屋敷まで出てきたのは、家にいたくなかったからだ。

 家が安普請で、雨漏りがひどい。そのうち家のなかを傘をさして歩くことになる。親戚のだれかれの名をあげ、修繕の掛かりを工面してこいというのだ。

 政之介は、昨年の四月に史料部屋へ異動になった。

 文書の山と古びた文机のあるかびくさい書庫で、ほかの三人の落ちこぼれといっしょに、古い文献をひっくりかえすのが、おもな仕事である。

 政之助が、その風采のあがらなさと才のなさにもかかわらず、遠い親戚の伝で、西国の大名の上屋敷に勤めることになったのは、もう三十年まえになる。

 自身は江戸者であり、一代限りの、いわゆる現地採用であった。家臣のおおかたは、国許から江戸詰として勤番者がほとんどだ。

 不器用な政之助は、そのお国訛りをお世辞にさえ使うことができない。

 時刻は七つを過ぎている。暮れ六つには、見回り番がきて、かくべつの用がなければ、書庫の鍵を締めにくるだろう。屋敷じゅうがひっそりとしている。

 家には帰りたくない。

 女房の苦労はわかっているつもりである。だから、いままで何年も我慢してきた。そんなに感情の起伏の大きい女ではないから、金がいることもほそぼそとした声で訴えてくる。

「こんな雨のなか、どこへいらっしゃるんです」

 そう言う女房の声を背中に聞きながら、土砂降りの雨のなかを出てきた。

 どこか行きたいところがあるわけではない。どこかへ行きたいとか、遊びたいとか、なになにをしたいという気持ちすら、もう何年もまえに忘れてしまった。何十年も自分を抑えてきたので、自分のなかに、なにかしたいという気持ちがあるのかさえわからない。

 政之助は、外の雨を見ながら、のろのろとしていた。

 廊下に足音がした。見回り番にちがいない。帰る支度をしているふりをする。

「お、ひとり、いたか」

 顔をのぞかせたのは見回り番ではなく、江戸家老だった。急いで居ずまいをただした。

「竹腰どのを見てないか」

 竹腰は留守居役である。対外折衝にあたる役目がら、こんなところに顔をだすはずもない。家老はよほどあわてているようだ。

「急用があってな。連絡を取りたいんだが、そちは竹腰どのの家は知っているかね」

「は、わかるとぞんじますが」

 政之助は江戸者だから土地勘がある。だいたいの見当はつく。

「さっき使いの者を出したんだが、どうもおぼつかない。ちょっと行ってくれないか。六つまでに御用部屋へ来るように伝えてほしい。家にいるはずなんだ」

「はっ、かしこまりました」

 何年ぶりかで、張りのある声が出てきた。

「早急(さっきゅう)の審議だ、かならず伝えてほしい」と家老は声をつよめた。

「はい、六つに御用部屋ですね。わかりました」

 政之助は、新入りのときのように緊張した声で返事をしたが、顔をあげたときには、家老はふつりと消えていた。

 留守居役の住居を調べると、政之助の家からは遠くなるが、どうせひまなからだだ。

 外へ出ると、雨はけっこう強くなっていた。番傘はところどころ穴があいているから肩先をぬらし、綿袴の裾ははしょっていても、すぐにびちょびちょになった。

 近道を行くことにした。軒と軒がくっつくような狭い道路だ。その軒を押しのけるようにして、大きな荷車が行く。

 風が強くなった。

 塀のうえから顔をだしているいじけた樹木が、そのてっぺんあたりを気が狂ったようにふりたてている。上空の厚い雲は、いまにも落ちそうなほど重く、汚れた油紙が道のはしでのたうちまわり、なにもかもがいらいらしていた。

 向こうからきた男の傘と傘がぶつかりあった。あっと思ったとたん、襟首をぐいとつかまれ、ふり向かせられた。左の頬にものすごい衝撃があった。思わずおさえた左手に血がついている。唇が切れたのだ。いきなりだが、けんかをしている暇はない。

 懐紙で唇をおさえ、また歩きだした。傘はよけいに破れていた。

 頬のあたりがずきずきしたが、政之助は、ぶじ竹腰の屋敷にたどりついていた。

 入ろうとすると、待っていたように門戸が開いた。そこには出掛ける支度をした竹腰がいて、おどろいた顔をしている。政之助がそこにいることにおどろいたのかと思ったが、腫れあがった顔に目をとめていた。

「あ、あ……ご家老が、六つに、御用部屋で」

 歯ぐきを傷めたらしく、思うように声が出ない。

「ああ、聞いた、聞いた。使いの者が道に迷ったらしくてね。さっき聞いたよ。いまから出かけるところだ」

「早急の審議だそうで」

 竹腰の口のはしに皮肉な笑いが浮かんだ。

 政之助は、出すぎたことを言ったのだと感じた。大事な審議をかれのような下っ端に、かるがるしく口にされたくなかろう。詮索しているような口調になったのか。

「それよりも、その顔はどうしたのだ」

「あ、これは、途中でちょっと」

「はは、女房になぐられたな」

 竹腰は、自分の冗談に高笑いをした。お供しましょうか、という言葉をしりぞけ、待ちかまえていた駕籠に乗りこんだ。

 家へもどる傘のなかで、かれの頬骨はますます痛みをましてきた。頭までずきずきする。

 また今川橋をわたり、日本橋に向かった。牛に引かせた荷車が二台行く。台車には材木が山と積まれている。

 むなしい努力をしたせいか、頭痛のせいか、思考は停滞していた。きょうという日は自分の人生そのもので、さらにちぢんだような気がした。

 にぶった思考は、目のまえの荷車が傾きかけているのに気づかなかった。材木を結んでいた縄がゆるみかけていることも、傘をさしていて見えなかった。

 ただ足ばやに通りすぎようとしただけだった。つぎの瞬間、政之助は転がり落ちてくる材木の下敷きになっていた。

 息絶えるとき、西の空の青いのが目にはいり、傘はもう要らないのだと思った。

 竹腰は、六つすぎに船宿がならぶ通りで駕籠をとめさせた。『かわせみ』だの『すみだ川』だのと表示のある行灯型看板がずらりと道脇に出ている。そのうちの『御用部屋』という置き看板の船宿の入り口をくぐったころには、雨はすっかりやんでいた。

「やあ、お待たせしました」竹腰は、すこし叫ぶようにして言った。

「やあ、急なのに、よく来られた」と家老が言った。

「きょうは、鴨狩りだったのでは」竹腰は家老にたずねる。

 ふたりの脳裡には、史料部屋の者が来たことなど、ちらりとよぎりもしなかった。

「そうなのだ。昨夜から君公のお供で下屋敷のほうに泊まりこんでたんだがね。朝からの土砂降りであろ。鴨狩りは中止。下屋敷からの帰りに晴れると聞いてね。君公と上屋敷にもどる途中で悪いことを考えていたのだ」

 みんな笑った。笑ったのは、家老と竹腰と、あとふたり、全部で四人だった。

『御用部屋』のもう一方の外では大川の流れが土手をたたく音がしていた。そこには屋根船がつながれている。

「おそろいなら、そろそろ出ますか」

 四人は、船頭の指示にしたがって、夜釣りの船に乗りこんだ。