「こ、これは、どういうことでございますか」
須原屋善兵衛は叫ぶように言った。その手もとには、一幅の肉筆画があった。それを見て驚いたのである。
相手は今をときめく菱川松柏である。
善兵衛は通銀(とおりしろがね)町で書肆(しょし)を営んでいる。間口の広い店先では、いま売り出し中の読本作家である曲亭芭金の『珍説雪待月』が飛ぶように売れている。
隠居した父の跡を継いで三年、父親とは違ったことをやってみたかった。そのため読本や黄表紙を出すだけでなく、曲亭芭金の仕事部屋を浮き世絵にしてみたかった。
美人画や歌舞伎役者のようには売れはしないだろう。しかし芭金の好事家なら興味をもつにちがいない。それにちょいと値段をふっかけてみよう。
そう思い立ち、当代随一の絵描きであり、画仙とも呼ばれる菱川松柏に芭金の仕事部屋を描くよう依頼してあった。
その絵ができあがってきて、善兵衛は驚いたのである。自分の見知っている芭金の部屋とは似ても似つかない。
芭金の家は深川にあって遠いので、用足しは手代や丁稚にまかせ、一、二度訪れただけであった。引っ越したばかりのその家は真新しく、家具調度もまだ整っていなかった。
それなのに菱川松柏の描いた絵は──家ぜんたいが古びている。
右手まえには大きな屏風が立っている。床の間には掛け軸が二本下がっていて、大魚の上で見得を切る男や、魚にまたがって剣を振り回している男が描かれていた。
横の違い棚には花瓶や額皿がざつぜんと置かれており、床には書籍が山と積まれている。『大久保忠隣実記』と表紙にあるのは見たことがある。
正面にある黒檀の大机には、端渓らしき硯が二つ置いてある。一つはよく使いこまれ、真ん中がすり減って窪んでいる。桧の手文庫には細筆が数十本並んでいる。書くのが早い芭金は、半日で1本の筆を駄目にするという。
角行灯もあったが、まだ火を灯す時刻ではない。
机の向こうの障子は開けはなたれ、庭が見える。左手奥に井戸があり、その横に二、三本の竹がすっくと立っている。
庭の右手、縁先に頭を出しているのは満開の沈丁花であった。源氏窓には明るい陽ざしに照らされた樹木の影が映っている。
おまけに机のまえに座っているのは芭金ではなく、若い女であった。それも、はっきりと描かれているのではなく、薄墨で縁取りされた後ろ姿である。なんだか幽霊のようでもある。女のうなじだけがとても美しくはっきりしていた。
絵そのものはよくできていた。春の陽ざしのやわらかいようすや、古びた部屋の風情がそこはかとなく伝わってくる。沈丁花などはその香りまで匂ってくるようだ。
しかし、なにもかも違う。須原屋善兵衛は首をかしげながら言った。
「菱川師匠、これはどちら様のお宅でございましょう」
「おぬしが依頼してきた曲亭芭金の部屋に決まっておろう」
「申しわけございません、あたくしも芭金師匠のお宅へは伺ったことがございますが、これとは違うております。部屋はまだ新しく、こんなに調度などはございませんですが」
「しかし、わしの眼には、こんなふうに映ったのじゃ」
「しかし、これでは……」売り物になりゃしない。「この、ほれ、女の幽霊みたいなのは何者でございます。これではとても」
「とても、とはなんだ」
絵に文句をつけられた菱川は不機嫌であった。腕組みをしながら、さきほどからそっぽを向いている。「わしの絵にけちをつけて、画代を払わんつもりかの」
「いえ、いえ、とんでもございませぬ。そのようなつもりは……」
仕方がない。相手は天下の名絵描きだ。機嫌をそこねてはいけない。
善兵衛は約束どおりの金額を支払った。
菱川が帰ったあと、絵を眺めなら思案した。絵としては悪くないし、菱川の落款も押されている。べつの口実で裕福なだれかに売りつければ、いくらかは元がとれるかもしれない。いつかなにかの折りに。
そう考えて、箪笥の抽斗にしまった。善兵衛はそれきり忘れてしまい、絵はしだいに抽斗の奥へ、下へと追いやられるままになった。
それから三十年後──
須原屋善兵衛は曲亭芭金の家に向かっていた。すでに息子に店をゆずっていたが、完全なる隠居とはいかず、ときどき大事な用などにかり出されることがあった。
その後、芭金の『里見八魚伝』も大当たりしたから、会うときはほとんど料亭でもてなすことが多かった。ひまある隠居の身、今日はふと芭金の家を訪れようと思いたったのだ。
春らしく暖かな陽気、うらうらと深川まで歩くのも悪くない。
「ごめんくださいまし」入口で声をかけた。
「はい、どうぞ」と若い女の声がかすかにした。迎えに出てくる気配はない。
「ごめんなさいまし」
そろりと奥の仕事部屋に向かった。部屋に入るとき、沈丁花の香りがした。
部屋には、机に向かう女の後ろ姿があり、いっしんに筆を運んでいる。
それを見て、善兵衛はぞくっとした。
部屋のようすは、三十年まえ、菱川松柏が描いたとおりだった。屏風の絵も角行灯も、庭の井戸も沈丁花も。
幽霊のように描かれていた女は生きていた。
「あ、あの、芭金師匠は……」ふるえる声でたずねた。
「いまお出かけですから、お待ちください。申しわけございません、この清書を急いですませねばなりませんので」
女は振りかえりもせず、うなじだけを見せて言った。
善兵衛は、息子が話していたことを思いだした。
最近の曲亭芭金は目が見えなくなり、口述で嫁に書かせていると──
このとおり描いた菱川松柏は、もうこの世にはいない。画仙には、三十年後の芭金のことが確かに見えていたのだ。
あの菱川の絵をどこへしまったのだろうと、善兵衛はぼんやりと考えた。