第一話 日本橋の霧

 その日、五兵衛は日本橋に向かっていた。得意先回りが早く終わり、夕暮れまえに家に帰れそうであった。

 橋台にある魚河岸のにぎわいを通り抜けた。すでに帰り支度をしている者が多い。たいていの盤台や天びんのなかは、ほとんど空で、売れ残った魚がぐったりしていた。

「安いよ! 買ってくんなきゃ、こんなかの魚ぜんぶ川へ捨てるよ」と叫ぶ声。

 ふん、江戸っ子があんな活きの悪い魚、買うもんか──

 そう思いながら、橋のたもとにさしかかったとき、暮れ六つの鐘が鳴った。

 

 そして渡りはじめるころ、霧がかかってきた。橋の向こう岸の高札場は見えなくなっていたし、右側にいつもは見える一石橋もぼんやりとしている。

 晴れた日には富士山も江戸城も見えるはずだった。

 五、六歩渡ったときには、霧はさらに深くなり、三尺先も見えない。槍持ちや挟み箱持ちなど数人の供を連れ、馬に乗ったお武家が蹄の音を鳴らして、橋の中央を通っていたが、その歩みものろくなったようだ。

 白いものはしずかにすばやく辺りを巻きこんでいく。自分の足下さえ見えず雲のなかを行くようなおぼつかなさだった。川面はもちろんのこと、川を行く舟も見えなかった。

 霧のなかを歩いて、歩いて、歩きつづけた。

 しかし、いつまで経っても向こう側に着けない。

 いつもなら、もうとっくに着いているはずなのに、おかしい──

 周りの人を見ようにも、霧が深く、ぼんやりした影が見えるだけである。供連れのお武家の乗った蹄の音だけが耳に入ってくる。その規則正しい音に安心して、五兵衛は遅れないように歩いた。

 それにしてもおかしかった。もうたっぷり四半刻は歩いているような気がする。日本橋は大きな橋だが、そんなにかかるはずがない。

 得意先で引っかけてきた酔いが今ごろ回っているのか。それで足がかったるく、長く感じるのかもしれない。五兵衛は頭を振った。

 前のほうを歩いていた行脚僧の背負った厨子が、霧のなかにぼんやり見える。鉦と鈴の音もかすかだが、ときおり聞こえる。

 供連れ武家の乗っている馬の蹄の音も相変わらず聞こえていた。

 みんな何事もないように、霧のなかの橋を渡っている。

 酔いが回りすぎたのだ。早く家へ着きたいという気持ちが、長く歩きつづけているように感じるのだ。そう考えたが、身体はかくじつにだるく、足も痛んできた。

 不審に思う者はだれもいないのか──だれかに聞いてみようと思った。お武家の草履取りになら、気やすく声がかけられそうだ。そちらへ近づいていった。

 

 そのとき馬の蹄の音が変わった。木の板を踏む音から土の音に変わったのだ。橋は終わっていた。ようやく渡りきったのだ。しかし辺りは真っ暗になっていた。

 それから家までは、いつもどおりすぐに着いた。

「あんた、遅いじゃないのさ」と女房が言った。

 おう、狐につままれたみてぇでよ、と答えようとしたとき、鐘が鳴った。

「いまの鐘、いくつだ」

「もう五つ(午後八時)だよ」

 日本橋を渡るのに一刻(二時間)もかかったのか。どうりで足も痛いし、疲れるはずだと五兵衛は思った。